ちゃろ~(^o^)
「ンなものはもはや令和の時代には必要ねえ」という人もいるでしょうけど、私は年賀状を書く(というか作る?)のが好きなので、義務じゃなくて楽しみながら毎年だしております。
で。
ネットを眺めていたらこんな記事を見つけました。
なので、備忘録的に記事にしておこうと思います。
正解は「出す」
少なくとも私はそのように教育されておりまして、実践しております。
こういうのは時代の変遷で当初の思惑? からはだんだん外れてきて「昔の常識、いま非常識」みたいな感じになっていくものの一例かもしれませんね。
あとは地域差?
大げさなタイトルですが、私が喪中はがきを送ってきた人へも年賀状を送る根拠というか、行動原理というか考え方は次の通りです。
喪中はがき(正式名称は「喪中欠礼状」)の意味は「私は喪中なので来年の年賀状は送りませんね」という意思表示です。
つまり、自分の立場を相手に伝えるもの。
ぶっちゃけ「私は年賀状書かないけど、ごめんよ」という事前挨拶みたいなものです。
なので、年内に届けるのです。
で。次は受け取った方ですが、「わかった。来年あなたからの年賀状はないんだね。寂しいけど了解」と理解。
喪中はがきの効力?はここで終了です。出す側の年賀状事情には関係ないのです。
言い換えるなら喪中はがきを送ってきた人に年賀状を出すのは何の問題もありません。
年賀状というのは年に一度の「近況報告」ではありません。
遠く離れているなどの事情で「年賀」の挨拶ができない相手に、はがきで済ませるという意味合いのものだからです。
もちろん近況報告をすることに何ら問題はありませんが、それは近況報告であって「年賀」とは全く別のものだということは理解しましょう。
で、その年賀です。
年賀とは「新しい年を(あらかじめ)祝福すること」です。
新年になった瞬間、「おめでとう」って言い合いますよね? あれって何がおめでたいんだって話じゃないですか?
「お互い生きて新しい年が迎えられてよかったね、だからおめでとう」の「おめでとう」だと勘違いしている人が多いんじゃないかと思いますが、全然ちがいます。
新年の「おめでとう」という挨拶は実は呪文の一種なのですよ。いやほんま。(^^)
こういうのを専門用語?で「予祝」といいます。
文字通りあらかじめ(予め)「祝う」のです。
年のはじめに「おめでとう」という言霊を発することにより、その1年が「おめでたい」年でありますように、という祈り、いやおまじないのようなものなのです。
なので、喪中の人へ「今年1年があなたにとっておめでたい年であってほしい」という意味を込めた呪符である「年賀」状を送ることは良いこと、というか送るべし、というお話なのです。
寒中見舞いについても諸説ありますが、「(松の内を過ぎてから)喪中ハガキをくれた人に(年賀状の代わりに)出すもの」だと勘違いしている人が最近多い気がします。逆です、逆。
もっとも勘違い、と言い切るのは語弊があるかもしれません。これも時代によって意味が変わっていくのかもしれませんしね。
寒中見舞いとは喪中の人が(年賀状の代わりに、年賀状をくれた人に)出すものです。
年賀状欠礼の喪中はがきは一般的には形式的な文章だけになりますので、年賀状をくれた人へのお礼と、それこそ近況報告などを加えた挨拶状のような感じで、年賀状の代わりにだす、みたいな用法が本来の意義です。
そもそもは雪国の人への陣中見舞い的な意味合いでの文字通りの寒中見舞いであったようですが、様々な事情で年賀状を出しそびれた人の「敗者復活戦」的な受け皿にもなって行ったという感じです。世の中よくできていますね。
というわけで、諸説ありますけど私は喪中はがきを出した人への対応については幼少の砌より上記のように教育を受けておりました。
なので、喪中はがきを送ってくれた人にも当然のように年賀状を出します。
というわけで私から年賀状をもらってもそういうポリシーで出しているので「喪中葉書スルーかよ!」とは思わないでくださいね。^^;
ちなみにこのポリシーについては我が家では私と同居人では完全に意見が別れておりまして、コンテンポラリー的付和雷同風味が強めの同居人は喪中はがきを送った人には年賀状は出さない派です。
これは同居人のポリシーなので私は特に意見はありません。好きにすればいいと思っております。
共通の知人などの場合はややこしいですが、基本出します。
上で紹介した記事にある「喪中はがきに年賀状歓迎と付記する」回答には尊敬の念を禁じえません。同居人側のポリシー、つまり最近主流になりつつある?「喪中はがきをくれた人には年賀状を送らない」説に対する是正を行ってくれているのですから。
私が喪中はがきを出す時(縁起でもない^^;)には是非パクらせていただきたいと思いました。\(^o^)/